2019年10月11日金曜日

僕たちには儀式が必要だ

親戚から何かの事情でいらなくなったコンポをもらって(機械に詳しい風吹かせてるとよくある「使えない機材をもらう」現象)、近頃までライン入力してPCのスピーカー代わりにしか使ってなかったのを、久々にCD入れて聴いてみようかななんて思って、仕舞い込んだCD一個持ってきて差して聴いてみたりした。

メチャクチャ音質が良い!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
音が透き通っている。
PCのオンボサウンドでも何でもFLACを流すのが最高だろうと思っていたのが普通に覆った。音響系に特化したやつはやっぱりすごい。オーディオ沼に落ちてしまう。

で、書きたいのはそういうことじゃなくて、

CDのイジェクトボタンを押してトレーが出てくるのを待って、CDはめて、コンポが音を立てながらCDを吸い込んでロードを終えるのを見守りつつ、音量のツマミをいじって、トラックを選んで、再生を押す。

の作業がとても…………良かった


このご時世、CDよりも管理も再生も早いUSBやSDカードが主流になったとか、ダウンロード販売とか、ストリーミングサービスとか、それはもうタイムアタックのようにいかに無駄な作業や時間をかけずに同じ事を手にできるか!?ってのが美徳…は言い過ぎだけどコンパクトで便利!な流れがあって、

まあ確かに大事だし気持ちは分かる。
だってCD入れ替えや再生なんかで1分消費するとしたら2〜4回繰り返すだけで1曲分のタイムロスしてるようなものだからね。
それにどこでもどのデバイスでも少ない手数で音楽が聴けるというのは時間や環境的にも音楽に触れられる人の幅が広がるということでもあるし。


それはそれで良いということで置いておいて、その聴きにかかるまでの一連の動作がとにかくツボだった。
多分、そのボタン押してトレーが……から再生を押すに至るまでの動作がこの「音楽を聴く」ことにしか適用されない動作だからだと思う。

仮に洗濯機を1回まわしたり自販機で買ったりという行動に操作を記録したディスクを入れてロードを待って開始を押す的な、ごく日常的な事でこの一連の動作が入っていたら、特段気に入りもしなかったと思う。

逆に今の日常にはボタンやスイッチというものが溢れかえっていて、家の照明から家電のスイッチからパソコンつけたりタイピングするキーボードなんかも「押して動かす」ことだけを見ればボタボタにボタンだらけで、
だからこの動作に紛れるようにPCやモバイルから音楽を聴くやり方はすごくアッサリしていて淡白に感じる。
ウォークマンのような小型プレーヤーで聴くのとスマホに再生アプリ入れて聴くの、どっちが耳が澄まされるかとか。
食事の前にいただきますと言うのは流行当時であれば儀式だったかもしれないが、こうも毎日言ってると儀式感が薄れて「なんかそう言うものになってる」ぐらい敷居が下がっているような。

いわゆるあれは特別ってやつだよ。


僕は儀式というのは事実重視や機械的に見れば時間と労力の無駄だと思っていて、実際CD差すよりも手早く同じ音質で聴ける上位環境が出来てしまった以上、
CDを差して聴く方法って喩えるなら宗教観の薄れた社会で定期的に寺院や教会に寄って祈ったり瞑想したりする生活みたいなところがあるようにも思う。
それぞれ互いに「そんなことしても現実的に変わらない」と「やったほうが良いことがある」とか思い合ってしまうような溝と段差の関係がある。

宗教はややこしかったり波乱を呼ぶかもしれないので喩えはこれくらいにしておいて、

とにかく、他に替えの利かない物事に対して、それ用の儀式が用意されている時、それを選ぶことがすごい有意義に感じる。
音楽が特別きれいに聴こえるわけでも何でもないけど、確実に自分の中のどこかで特別な感覚ができる。

儀式ってそもそも何か思い入れがあってやることだと思うから、そんなごく個人の中の超身勝手な個人的なことを重視している限り、他人には大事さが伝わるとは到底思えない。
でも、自分一人で楽しむことにちょっとした段取りを持たせていくと、その段取りの末にあるものがちょっと特別で思い入れのあることに変わってくれるかもしれない。


いわゆる、苦労して手にしたものの方が良いってことでもあるだろう。
本当にいらねえ価値観だよね。
苦労せず手にしたものが最も素晴らしいって価値観だったらいいのに。

みんなも取り込んだっきり眠ってるCD、起こしてみようね。

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